昭和49年08月24日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
学が身を食うという、学問が少しある為に色んな知識がある為に、却っておかげを受けられないという意味の事だと思うです。ですから信心にはどういう知識を持っておってもどういう、学問を身に付けておってもそれを一遍、信心しておかげを受けると言う事はそういうものを、一遍捨て去ってしまうと言う事が大事のようですね。自分の知識とか学問とかというものは、もう信心のおかげを頂くと言う事には役には立たない。
ですから一遍それを白紙にして、そして神様へ向かうと言う事になると、おかげが頂けれる。これは学問だけではありません。信心の知識でもそうです。信心を例えば合楽の教会に御神縁を頂いて、まあ純粋ないわば合楽的な信心を身につける、と。ためには今までの信心を一遍空しゅうしてしまわなければいけない、無くしてしまわなければいけない。じゃないと合楽風というか、合楽流のおかげ。
それは合楽流と言うと、合楽でおかげを受けておるようなおかげが、つまらんおかげなら何だけれども、合楽で頂いておる、また現しておるおかげが素晴らしいと思うなら思うほど、今までの例えば雑多な信心と言うか。ね。また、同じ金光様の御信心を頂いておっても、今までの信心をかなぐり捨てると言う所から、合楽的なおかげになって来る。それは、合楽的なおかげを願うならば、求めるならばです。
これは不思議なものですよね、信心これは何の信心も稽古事と同じ事ですけれども、何の稽古をさせて頂くでも、何にも師匠について稽古を致します。詳しくなってもです、矢張りより素晴らしい師匠についたら、もう今までのものは全部、かなぐり捨てる事に努力しないと、すきっとしたおかげになりません。だから私よく申しますけれども、何々様も拝む、もう何々様でも拝むと言うて、そのあんまり拝み散らけとる人は、中々よい信心が頂けんです。
もう全然無心論者、全然信心がなかったと言った様な人達が、一度合楽の信心のまあ、素晴らしいなら素晴らしいと言う所が分かって来るとです、そういう人が非常に信心が成長する。まず拝む事だけを覚えておるとかね、これはもう確かにそうです。なら今合楽の、まあ例えば、熊谷さん辺りの信心をなさる方。もう本当にそのおかげが合楽流と言うでしょうかね。もう日々喜びに浸っての信心生活。もう七十五か六になられますでしょうか。朝晩必ず二回お参りなされる。
その難儀な問題で矢張りある教会で信心をなさっておられて、そこの幹部にまでもなられた。ほれで合楽にご縁を頂かれてお参りをされたけれども、やっぱりそうですね、10年間ぐらいは、その信心が言うなら邪魔をして、おかげが受けられなかった、本当なおかげが。それはもうこれ以上の師匠はなかろうと言う様な師匠に付いておられたんですね、甘木の初代の信心を受けておられたんですから。当時は矢張り日本一と言う様な信心を受けておられたんですから。ね。
けれども合楽当時の椛目に御神縁を頂かれて、甘木の信心を持ち出しても、それではおかげが受けられなかったです、すきっとしたおかげを受けられなかった。それで例えば、そういう、なら甘木の信心なら甘木ん信心を、もう本気で振り捨てると言う事に一生懸命なられて、まあ今は誰がどこから見られても、合楽の御信者さんだな、と。もう本当の合楽流儀というものを身につけてしまわれたという感じです。もう見事に合楽流のおかげを受けて行かれますですね。
私が頂いておるような同じような、言うならばおかげを受けておられる。ですからこう言う所がですね、私はもう無学の状態になったが、一番おかげが受けられると言う事です。知識も一遍返上する。学問も一遍は信心の上には役に立たんと思い込ませてもらう。そして、ならどう言う事かと言うと、ならここでは私です。ね。親先生が無学でしかもいろんな知識も持たない者が言うておることを、まあ嘘かも本当かも分からんけれども、それを無条件に信じると言う事です。
学問があったり、ね、信心の知識があったりすると、あちらの先生では、こげな風にお知らせを頂いた、おかげを教えて頂いた。合楽の先生は、あんな風に言いなさると言う事になって、ごっちゃになってくる。ね。ですからどうしてもです矢張りここは、無学の状態。今までの言うならば、信心の知識がおかげをかえって食うてしもうたり、いわゆる学問、学が身を食うと言う様な結果になるのです。まあ熊谷さんのことですけれども、私は一番初めにあちらの宅祭りに行った時、お風呂を頂いた。
そん時驚いたことは、もうこんなに小さい、新注の新注て別にわざわざ誂えられたらしい小さい湯置けがおいてございました。もうそれはこんなに小さいです。それこそままごとに使うように小さい。それはどういう訳かと言うと、甘木の親先生は、皆さんもご承知のように、それこそ枯れ枝枯葉一枚でも、神様の御物として大事にされたわけです。ね。勿論、お水なんかでも大事にされました。
それはもう小倉のひとつの流れでもある、お水に大事にすると言う事は。ね。所がここではお水を粗末には使いませんけれども、必要だけは必要に使わせて頂くというのが、私の流儀なんです。夜は例えばお手洗いの水をぴしっと止めてしまいますけれども、ね、もう一日中、言うならば出っぱなしに出てるです。だから甘木の親先生やら桂先生がそれをご覧になったら、大坪はもうお粗末な事をすると言うて、お叱りを頂くかも知れませんけれども、言うならそこが違う所です。
そういう教えを受けておられたもんですから、湯置けでも小さい湯置けで使われる。それだけお水もお湯も少なく使うてよいという、それを有り難しと頂いておられた。所が合楽に来たら、そげなんじゃなか。もうそれこそ必要なだけは、必要に使わせてもらう。お粗末にはしてはいかんけれども、と言う様な私の流儀から、今の熊谷さんの言うならば、それからしばらくして、その湯置けは変えられました。合楽風に大きな湯置けを使われるようになりました。
と言う様にですもう今までのものをかなぐり捨てると言う事です。今まで身についておった、是は学問でも信心でも言うなら白紙の状態になると言う事です。言うならば本当に馬鹿と阿呆になると言う事です。でないとです私が言うておる事の自分の知識とが一緒にこんがらがって来るんです。ね。ほらあ拝み方はもうお経も知っとる祝詞も知っとる。もう何々様でん拝みきると、拝みきるからおかげになるのじゃないのです。
だから却って(拝みきらんとかん方がよか?)と私が言うわけですね。信心にはそういうよなものがどうでも必要です。此方は無学でも人が助かる。人が助かるというほどしの、言うならばお徳を受けるためにはやはり、白紙の状態になると言う事が大事です。その学問を使うてはならん、知識を使うてはならんと言う事ではありませんね。ただし信心の上においてはその知識は役に立たん所か、その学問は役に立たん所か、その学問が知識が、身を食うたりおかげの邪魔をすると言う事なんです。ね。
今朝方から私はお夢を頂いた。お夢とも御神眼ともつきませんけれど、その生き生きとした檜の何ち言うですかね。檜の木が植わっとるすぐそこの横に、柿木が植わっておる。その柿木と檜が側に植わっとるから、もう一つになってどちらが根やら分からんように、柿と檜が一緒になっとる様な感じで頂いた。柿木と檜とそこで皆さんその柿の字を一つ、こう書いてみて。木へんに市という字が書いてありますね。
この市の字という字は。柿木。檜という字は木へんに曾という字が書いてありますね(かい?)というです(何々かい?)という(かい)ですね。書きの字は木へんに市の字。檜という字は木へんに曾という字。ね。いわゆる(かい)という字。私はそれを頂いたです、今の合楽の方達の信心の焦点というのはここに置きさえすれば、おかげになるです。おかげだけではありません、必ず徳がうけられるです。どういう事だと思うですか。木へんに曾という字ね。これを檜と言う。
檜というのは矢張りね、神様のお道具を作るのは必ず檜。こういう物は全部檜で出けておりますがね。心を一つにしてね。木は心と言うて柿という字は心を一つにしてですね、神の木と一つになるということです。神の心と一つに合うと言う事です檜というのはね。檜が神様柿木がまあ、人間と致しましょうか。根。柿のお知らせは、いわゆる凡常を持った(ぼんぶ)の姿という風にお知らせで頂きますね柿は。言うならぼんぶと神様とが出会うと言う事。それが一つになるということ。ね。
今合楽で神様と一つになれれる道は、どう言う事かと言うと、毎日申しておりますように、合楽示現活動に参画させてもらうと言う事です。今はね例えば、今までの教えを全部ならかなぐり頂いた、身につけた信心をかなぐり捨ててもいいです。だからね、今、今年または今日、なら御神縁を頂いてもです、今までの拝み散らかしておった神様、拝み散らけておる信心というものを、ひとつかなぐり捨てて。
自分の持っておる知識というものは、この信心には、もう役には立たんとして、白紙でですはあ先生が合楽示現活動に参画さえすればと言うたが、そのことだけを思いそのことだけに明け暮れる生き方をされると言う事が、今日私が頂いた檜と柿木が一つになると言う事です。この事だけにです寝ても覚めても、この事を思い寝ても覚めてもこの事を行の上に現して行こうという気になればね、もうどんなおかげでも受けられんことはないです、今の合楽は。
そん為にはです、例えば今までの知識とか学問とかと言った様な、ね、そういうものを信心にだけは、もう役には立たんと、まず思い込ませて貰う、知らなきゃいけません。私は過去において、どこどこ教会でこんな信心のけいこをしたから、こんな風に教えられたからと言うとです、それとごっちゃになって、いけません。だから、そういうものを一遍かなぐり捨てて、今の合楽の言うならば信心の先端というか。ね。今の合楽の信心の最高峰と言うか。そこん所をです、もう白紙にになって頂くという事ですから、素人もなければ玄人もないのです。
ただ明けても暮れても、合楽を現すと言う事。合楽を示し現して行くと言う事。そのことに言うならば命をかける。そのことに明けても暮れても思い暮らさせて貰うと言う事ね。それが今日私が頂いた檜と柿木が一つになっておると言う事であると思わせて頂いた。そしてたまたま、今日は九十九節を頂きましたから、ね。もし教祖様がですね、もう自分でも仰るように無学ではなくて、なら学者でお在りになったとするならばです、こことは反対のことを教えられたかも知れません。ね。
学が身を食うと言うけれども、ね、御神徳を受ければ、どんなに学者でも御神徳が受けられるという風に仰ったかも知れません。ね。所がたまたま教祖様が無学でお在りになった、と。無学と言うてもやっぱこれほどの教えを下さるくらいですからね、昔の人としては、それこそ学問があったわけですけれども、ご自分では無学とこう言っておられる。ね。ですから結局そこに言おうとしておられる所は、どう言う事かと言うとです、今日私が申します、今までの持っておる知識とか学問というものはね。
信心には役には立たないと言う事だと思うのです。それは人に話を聞いて貰う時には、例えば私共の様に無学な者は、私どもの知識の全部を振り絞っても、このようなお話しか出けませんけれども、矢張りこれを学問がある人ならば、もっとまあ理路整然と、しかももっと素晴らしい良い言葉を使うてお話が出けると思いますけれども。ね、おかげを受けるということは別です。ね。その証拠にはお徳を受けるとお話は出けんでも、言うならば人が助かり、自分も助かって行くことが出けるのですからね。
まあ今日はその檜と柿木がひとつになると言う事。この事を私が今言うならば一生懸命に皆さんに聞いて頂いておると言う事。合楽示現活動に参画させてもらう。訳はわかっても分からんでもね、本気で合楽でおかげを受けておる要素を、皆さんに聞いてもらう。または読んでもらうね。そのことだけを明けても暮れても思うておられるならばですね。またそう言う事に成る為には、今までの信心知識とか、学問というものは白紙にならなければ出来ません。
白紙になって今教えられておる事に一生懸命になる。まあだから脇から見ると馬鹿の様に見えるかも知れません。ね。福岡の池田さんとか、川上さんなんかは、毎日電車の行き戻り一日に6~7名にはお話をする。それはもう頭から跳ねつけられる人もある。池田さんが昨日一昨日でしたか、お届けをしておられたが。こっから帰りにバスに乗らせて頂いて、まずお話を聞いて下さる様な方は、ないだろうかと思うて物色する。
はあこの人は助かってござらんごたる顔をしとる人がござったから、その人の横にかけた。そして一生懸命合楽にお参りをした帰りの、有り難い話をされ始められた所が、愈々もう機嫌悪い顔をされた。それでもやっぱり一生懸命話す。そしたらその方が「私は坊主ですよ!」ち言わっしゃった。はああの仏教のお坊様ですかと。それでも金光様の信心は天地金乃神様、天地の親神様のお話でございますから、これはお釈迦様もなからなければ、キリスト様もない、と言うて話された。
終いにはもうニコニコとして、今日はよか話頂いたと言うて、下りられたと言う事です。是は言うならもう明けても暮れても、その事に思いをかけとかなければ、出来るこっじゃないです。そういう言うならば生き方というか、それこそ明けても暮れてもどうにか合楽のお話をせにゃおられない止むに止まれぬ、それだけでおかげを受けるです。ね。お徳が受けられるですね。それにはたとえば本当に言うならば、知識も学問もです一遍信心の上にだけは、それをかなぐり捨ててです。
只日々の教えをそのまま白紙で受けて、それを本当の行の上に現して行くという以外にはないです。そこには言うならば知識のない人の状態。又は学問のない人の状態というものが、自分の心の中に例えば、池田さんも相当勉強された、女としては学の冴えた方ですし、信心も皆さん方のように熱心です。けれどもそういうものをかなぐり捨てて、只今あるものは合楽示現活動と言う事だけに専念しておられる、と。それでお徳が受けられる、それで、おかげが受けられるという、今日はお話でしたね。
どうぞ。